「常識」について思うこと

「普通は~するだろ?」 「~するのが普通でしょ?」 よく耳にするし、自分も言われたことのあるフレーズ。このとき、「確かにそうだな」と納得できるときもあれば、「そうなの?」と疑問に思うときもある。
 
三省堂のWeb Dictionaryで「普通」を調べると、『かわったところのないこと.』 とある。その「かわったところ」 の基準が人によって違うので、「普通」にするのが難しいのだと思う。
そして、更に困惑するのが「常識」である。同じく、三省堂のWeb Dictionaryで「常識」を調べると『一般社会人が当然もつとされる知識や判断力.』とある。この「当然」は、自分とって「当然」であっても人によって全く当たり前ではないときがあるのだから厄介である。
 
先日、親族が亡くなったのだが、その時に妻の親族からお香典を頂戴した。葬儀も終わりようやく落ち着いたところで香典返しについて両親とも相談していたところ、妻の両親から香典返しはしないのかと聞かれたのだった。香典返しは忌が明ける四十九日を過ぎた後で贈るものだと思っていたのだが、妻の住む地域ではすぐに香典返しを贈るのが「普通」なので、しばらく経っても香典返しが贈られてこないことから出さないものだと思われたようだった。
 
「常識」について、Wikipediaでは、『社会の構成員が有していて当たり前のものとしている価値観、知識、判断力のこと』と書かれている。つまり、「社会」が変わると「常識」も変わってしまうので、様々な「社会」の人が集まる場では、特に「常識」的な言動を振る舞うのは困難になる。
 
「常識」を考える時、決して独りよがりに自分の「常識」を押し通すのは危険なのだと思う。「普通は~するだろ?」 そう言われたときに、例えそれが自分の「常識」から外れていたとしても、その時に自分がいる場所の大多数の人が「それは普通じゃない」と感じるのであれば、自分の「常識」が間違っている可能性を決して忘れてはならないのだろう。
 
子供には、まずは自分の信じる「常識」を教えてあげたい。でも、いつまでも親の常識に囚われるのではなく、将来は、ちゃんと自分の力で自分が歩んできた経験から、自分の常識を見つけて欲しいと思う。でも・・・ 子供が成長して大人になった時に持っている常識が、今自分の持っている常識と少しでも共通する部分が残っていればいいな・・・ と思ってしまうのは、親のエゴなのだろうか。

Common sense is the collection of prejudices acquired by age 18.

Albert Einstein (アインシュタイン)

 
(常識とは18歳までに身についた偏見のコレクションである。)

その偏見が、子供が社会に出ても、少しでもより多くの人と共感されるようなものであるように気をつけたい。

 
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