辛いとき悲しいときに思うこと

なんでもないことで落ち込んでいたり、職場で辛いことがあったり、家族が大病を患っていたり、最愛の人を失くしてしまったり・・・ ちょっと我慢すれば乗り越えられるものもあれば、悩んだまま布団に入っても、朝起きて何も変わっていない周りの状況にいる自分に落胆しながら、それでも毎日を過ごしていかなければならないときに、どうしたら気持ちが楽になるのだろう。
 
これまでの辛いことや悲しいことを乗り越えなければいけないときに何気なく考えていたことを思い起こし、決して自慢できる方法ではないけれど、個人的な対処法として2つに整理してみた。
 
1つは、「下方比較という考え方」のこと。以下は、Wikipedia からの抜粋。

上方比較・下方比較 [抜粋]
 Willsは1981年に下方比較の概念を提唱した。下方比較とは、人が自己評価の意味として使う防御的な傾向のことである。下方比較においては、個々人が他の個人や比較集団を、知覚される同質性よりも解離させるために、及び、彼ら自身や彼らの個人的な状況をより良く感じるために、より悪く考えられていると見なす。社会的比較研究は、上方比較における優越感や、より良い他者との比較は、自尊心が(相対的に)低め、一方、下方比較は自尊心を上げることが出来る。下方比較理論は、自身の主観的幸福度を増大させる点において、比較の積極的効果を強調する。例えば、乳がん患者達は、彼ら自身よりも、より不幸な多数派の比較集団を作り出す、という現象が見出されている。
 
要約すると、下方比較は自身達について、心地よさを感じさせる傾向があり、上方比較は、より高い達成や研究を我々に動機づける傾向がある。

 
比較対象を他人におけば、自分よりも不幸な人を思い浮かべて「それに比べたら今の自分はまだいい」と思うこと。また、比較対象を過去の自分におけば、「あのときの自分に比べたら今の自分はまだマシ」と思うこと。特に比較対象が他人の場合は口に出すと最低だけれど、辛い気持を耐えしのぐために、自分の心の中で思うだけなら許されるのではないだろうか。また比較対象が過去の自分の場合は、これまでに乗り越えてきた「壁」が大きいほど、目の前の問題を楽に乗り越えることができるのだと思う。上を向くのは難しくても下を見るのは易しいので、落ち込んでいるときにも対応できるのではないかと思う。
 
2つ目は、「いつかは時間が解決してくれる」ということ。冒頭、自分で「朝起きて何も変わっていない周りの状況」と書いたけれど、全くなにも変わっていないということはない。少なくとも、1日経てば周りの人は1日歳をとっているし、どんな物でも1日という時間が経過している。それがずっとずっと重なっていくと、最後にはどんな「問題」も解決する。それは、ただ「忘れる」だけかもしれないし、「辛い出来事に慣れる」だけかもしれない。「別のもっと大きな問題(逆に辛いことを考えなくて済むくらい嬉しいことかもしれない)」に直面するのかもしれないし、「辛いこと悲しいことの対象が自分の周りから消えてしまう」のかもしれない。どうやって解決されるのかは分からないけれど、それでも、時が経てばどんな問題も解決する。そう思うことで、「どうせ将来解決する問題なら、今こんなに苦しまなくてもいいだろう」と考えて我慢する。これも、自ら何かするわけではなく、ただ問題を時間の流れに任せるだけなので、どんなに辛いときでも可能な対応だと思う。
 
頭の中のことを改めて活字にすると、やっぱり人に自慢できるものではないと再認識した半面、これまでモヤモヤしていたものがなんとなく整理できた気がする。

 
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「常識」について思うこと

「普通は~するだろ?」 「~するのが普通でしょ?」 よく耳にするし、自分も言われたことのあるフレーズ。このとき、「確かにそうだな」と納得できるときもあれば、「そうなの?」と疑問に思うときもある。
 
三省堂のWeb Dictionaryで「普通」を調べると、『かわったところのないこと.』 とある。その「かわったところ」 の基準が人によって違うので、「普通」にするのが難しいのだと思う。
そして、更に困惑するのが「常識」である。同じく、三省堂のWeb Dictionaryで「常識」を調べると『一般社会人が当然もつとされる知識や判断力.』とある。この「当然」は、自分とって「当然」であっても人によって全く当たり前ではないときがあるのだから厄介である。
 
先日、親族が亡くなったのだが、その時に妻の親族からお香典を頂戴した。葬儀も終わりようやく落ち着いたところで香典返しについて両親とも相談していたところ、妻の両親から香典返しはしないのかと聞かれたのだった。香典返しは忌が明ける四十九日を過ぎた後で贈るものだと思っていたのだが、妻の住む地域ではすぐに香典返しを贈るのが「普通」なので、しばらく経っても香典返しが贈られてこないことから出さないものだと思われたようだった。
 
「常識」について、Wikipediaでは、『社会の構成員が有していて当たり前のものとしている価値観、知識、判断力のこと』と書かれている。つまり、「社会」が変わると「常識」も変わってしまうので、様々な「社会」の人が集まる場では、特に「常識」的な言動を振る舞うのは困難になる。
 
「常識」を考える時、決して独りよがりに自分の「常識」を押し通すのは危険なのだと思う。「普通は~するだろ?」 そう言われたときに、例えそれが自分の「常識」から外れていたとしても、その時に自分がいる場所の大多数の人が「それは普通じゃない」と感じるのであれば、自分の「常識」が間違っている可能性を決して忘れてはならないのだろう。
 
子供には、まずは自分の信じる「常識」を教えてあげたい。でも、いつまでも親の常識に囚われるのではなく、将来は、ちゃんと自分の力で自分が歩んできた経験から、自分の常識を見つけて欲しいと思う。でも・・・ 子供が成長して大人になった時に持っている常識が、今自分の持っている常識と少しでも共通する部分が残っていればいいな・・・ と思ってしまうのは、親のエゴなのだろうか。

Common sense is the collection of prejudices acquired by age 18.

Albert Einstein (アインシュタイン)

 
(常識とは18歳までに身についた偏見のコレクションである。)

その偏見が、子供が社会に出ても、少しでもより多くの人と共感されるようなものであるように気をつけたい。

 
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誕生日について思うこと

誕生日は、人によって嬉しい日であったり、待ち遠しい日であったり、また、やってきて欲しくない日でもあったりする。自分の幼いころはいつも早く「大人」になりたいと思っていたせいか、誕生日を待ち遠しく感じていた記憶がある(いざ「大人」になってみると、昔、思い描いていたような人間になれているか疑問ではあるが)。
 
人は生まれると同時に「誕生日」をもつ。一方で、その「誕生日」をどう感じるかは、その人の生まれ育った環境やその時々の境遇によっても変わってくるものだとは思うが、自分は次のように考えている。
 
誕生日を迎えると、前回の誕生日から1年という月日が経過しているのだが、その1年が自分で満足できるようなものであれば、きっと誕生日を喜ばしく思えるのではないだろうか。「早く大人になりたい」と思っているような子供は、どんな1年であれ年齢を1つ重ねるだけの月日を過ごしたことに満足することができるので、誕生日を待ち遠しく、そして嬉しく感じるのだと思う。
 
今の自分は、誕生日をあまり待ち遠しく感じることはない。仮に、「もうこの年齢で出来ることは全部やりつくしたので、早く次の年齢で新たなことを経験したい」と感じることができれば、きっと誕生日を待ち遠しく感じることができるのだろう。今年の誕生日は、少しでも自分で喜ばしく思えるように、色々なことにチャレンジしながら、一瞬一瞬を一生懸命に過ごしたいと思う。

また、そうして迎えることができた誕生日に、他の人からも祝福されることができたなら、それはその人にとって素晴らしい誕生日になると思う。
 

 
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